成果に責任を持つ人には、自由がある。薬師寺多聞が語る、THINGMEDIAで働く面白さ

執行役員 Creative Producer:薬師寺 多聞

パリの撮影コーディネーターとしてキャリアスタート。帰国後はAOI Pro.に所属し、プロデューサーとして数々のTVCMやMVを制作。その後HOPE inc.を経て2026年よりTHINGMEDIAへ参画。クリエイティブプロデューサーとして映像に限らずWeb、SNS、OOH、eBookまで何でもプロデュースするスタイルで、広告代理店と協業する制作スキームの構築から、事業会社のマーケティングに並走し、ワンストップで行うコンテンツ制作スキームの両方を経験していることが強み。代表作に「恋するフォーチュンクッキーMV」「Google初音ミク」など9歳と6歳男児のパパ 、アウトドアと料理とお酒とスキーが好き。

THINGMEDIA株式会社 執行役員 クリエイティブプロデューサー 薬師寺多聞01

キャリアのスタートはフランス

──まずは、キャリアのスタートから教えてください。

学生時代にフランスへ留学して、そのまま向こうのコーディネーター会社でアルバイトを始めたのがキャリアのスタートです。現地で就職して、就労ビザを取得して、3年ほど働きました。

仕事は現地の撮影コーディネーターだったので、日本のプロダクションのプロデューサーや、PM(プロダクションマネージャー)の人たちと知り合う機会がすごく多かったんです。

仕事を始めたのが20歳の頃だったので、周りはみんな先輩でした。というのも、日本から海外ロケに来るスタッフさんたちは仕事に慣れた入社5、6年目以降の方が多く、関わる皆さんがお兄さんでした。

日本に帰ることになった時に「帰ってくるならうち来るか?」と、いくつかの会社の方から声をかけてもらい、そのうちの1社に、のちに入社を決めるAOI Pro.がありました。

帰国して半年くらいインターネット関係の仕事してみたのですが、やっぱりCM制作がやりたくて、AOI Pro.の門を叩き、念願叶って2000年8月にAOI Pro.へ入社できました。

入社して初めて知った「会社」という組織

──実際に入社して、会社の印象は変わりましたか?

そんなに変わったわけではなかったです。ただ、「自分はCM制作の一部しか見ていなかったんだな」というのは思いました。海外ロケというのは会社CM制作業務の一部にすぎない。

入社して2年目に、僕を誘ってくれていた憧れの部長プロデューサーの部署へ異動になり、そこで大手化粧品会社の仕事を担当するようになって、一つ目標とするイメージに近づいた感覚がありました。

一方で、組織体制やマネジメントライン上、その方と僕の間に10人以上の先輩社員がいるんです。時にはペーペーの僕が部長と気安く話しているのを面白く思わない人もいるということ。当時は帰国から間も無く日本特有のウェットな人間関係に慣れていなかったので、多少摩擦もあったような気がします。

ただ、それ以上に強かったのは、「早くプロデューサーになりたい」という気持ちでした。自分で決定権を持ちたかったんです。今思えば、すごく傲慢だったと思います(笑)。

当時は「誰にも負けたくない」という気持ちがすごくあって、一、二年上の先輩なんて、すぐ抜いてやろうと思っていました。ですが入社して仕事に慣れてくると、一年上の先輩でも優秀な人は簡単に抜けないし、それこそ四年目くらいの先輩になると、「ちょっとこれは山が高いぞ」という感覚。さらに五年目以降になると、経験の差がありすぎて勝負にならない。当時はそんな感覚でした。

CMプロダクションは「チーム戦」

──プロデューサーになるまでには、どんなステップがあるんですか?

CMプロダクションは、まずプロダクションマネージャー、いわゆるPMとして入ります。最初は、プロダクションマネージャーの助手です。メインで現場を取り仕切るPMが一人いて、その下に助手が3人程度チームに加わります。

当時のCM撮影現場は、キャストも入れると普通でも50人くらいが関わる規模感でした。ですから、一人で何かをやるというよりは、完全に役割分担なんです。例えば、お弁当や撮影で使う備品を担当する助手が一人。タレントさんの控え室周りや対応を専属でやる助手が一人。現場に来るエキストラを仕切る役もいる。それぞれ担当を決めて、動きます。

現場の規模が大きくなると、車両が10台くらい動くこともあります。そうなると、20人だけ先に次の現場へ入れてスタンバイさせるとか、各車両が結構複雑な動きをするので、それを統括する人もまた必要になるんですよね。

地方ロケになれば宿を取ったり、スタッフの食事を予約したりもします。もちろんロケの事前調査もそうです。新人の頃はそうしたことも全部仕事でした。

──プロデューサーになるまでには、どんなキャリアを積むんでしょうか?

AOI Pro.では、当時大きく分けると、PMの中に3段階くらいありました。アシスタントから始まり、大きな予算の現場を任されるチーフPMという立場を経てプロデューサーになっていきます。早い人で6〜7年目くらいで昇格します。プロデューサーも、アシスタントプロデューサーのような立場があって、その次がプロデューサー。さらにその上にチーフプロデューサーがいて、何人かのプロデューサーを束ねるチームリーダーや部長になっていくというイメージですね。部長になると、10人や15人程度のチームを率いる立場になります。そのチームで売り上げを作っていくといった組織でした。

藤原さんの背中から学んだこと

──キャリアの中で、大きな分岐点になった出来事はありましたか?

当時は担当代理店ごとに部署が分かれていて、5年目まで僕は汐留の広告代理店や化粧品会社の仕事をする部署にいました。

一方で、別の広告代理店を担当している「田町」と呼ばれるとにかく忙しいことで有名な部署があって、6年目からそこへ異動することになり、そこで藤原さんという名物プロデューサーと出会うのですが、これが大きな転機でした。

──そこから担当する案件も変わっていったんですね。

そうですね。藤原さんは、30代前半に田町の部署をほぼゼロから立ち上げた人で、立ち上げから10年で100億円規模を売り上げる部署に成長させ、44歳でAOI Pro.の社長になっていった伝説のプロデューサーです。ちょっと大げさですけど、僕の中では織田信長みたいなイメージの存在でした。仕事の仕方もすごくイノベーティブで、さらに顧客第一優先で、そのやり方で仕事がどんどん右肩上がりに増えるので、常に現場を担当するプロデューサーが足りない状況でした。

ですから、若いとか経験が少ないとか関係なく、必要に駆られてどんどんプロデューサーが生み出されていく部署で、「早くプロデューサーになりたい」という気持ちで仕事をしていた僕にとっては渡りに船。幸運なことに異動して一年半ほどでプロデューサーになれました。同期では一番早かったですね。

──この頃から、ご自身の強みも磨かれていったんでしょうか。

プロデューサーに昇格したと言っても、藤原さんがメインプロデューサーで、僕はあくまで実際に現場を動かす若手プロデューサーの1人という立ち位置です。

それでも、藤原さんに舞い込む仕事は、本当に大きい案件が多く、若手の時代に彼の下で経験を積めたことは、本当に大きかったですね。。山のようにあるタスク、ギリギリのスケジュールと厳しい条件の中で、まず何から手を付けるべきか。

そうしたことは、全部このチームで学びました。

プロデューサーの仕事は、"露払い"をすること

──当時、優秀なプロデューサーとは、どんな人だと考えていましたか?

「不可能を可能にしちゃう人」だと思っていました。普通の人が「そんなの無理に決まってるじゃないですか」ということでも、それを実現してしまう人です。

もちろん、最初に思い描いていたものと100%同じになるわけではなく「ちょっと思っていたのとは違う」という結果になるかもしれない

ですが、それ以上に「やってくれてありがとう」と思ってもらえる仕事をする。

ですから、人が断る仕事ほどやるべきだと、むしろ、それがチャンスだと教わったんです。今でもそう思っています。

100人中99人が「できるわけない」というような内容の案件を「どうせ無理だろうけど」と思いながら相談してきた人の期待をいい意味で裏切ることができたら、その仕事の印象ってすごく残るんですよ。

最初から条件が整っている仕事より、何倍も感謝されるはずですよね。

──クライアントのイメージを形にする仕事、ということでしょうか。

クライアントが何を考えているかを汲み取って、それを世の中にどう届けるかを考えるのは、プロデューサーではなくクリエイティブディレクターの仕事なんです。クライアントの想いを世の中に届くメッセージに変えて、どういう手法で届けるかを考えるのがクリエイティブディレクター。

対して、僕らプロデューサーは、立ちはだかる困難を全部取り除き、そのアイデアを実現に導くのが仕事です。例えば、「宇宙で撮影したい」という企画なら、とりあえずNASAに電話してみるとか笑。ダメ元でも、まず動く。それが仕事なんだと思っていました。

求められたのは、新しい"やり方"を作ることだった

──もう一つ印象に残っているとおっしゃっていた、Google Chromeの『初音ミク』についても教えてください。

あの案件も自分にとってすごく大きな仕事でした。

「あれを作ったんです」って言うと、「知ってます」「見ました」「感動しました」って言ってくれる人が本当に多くて。入社試験面接に来た中でもギークな子たちは、当時かなり反応してくれましたね。

あのCMは、自分にとっての転機であったと同時に、時代の転換点でもあったと思っています。

当時はまだ「オタク」とか「ギーク」って、まだどこか日陰者みたいな扱いだったんですよ。ちょっと陰気でキモいとか非モテとか、そういうイメージがまだ残っていました。

『初音ミク』もそのオタク文化の一部だと思われていたところに、Googleという誰もが知る「ド」メジャーな会社が真正面から初音ミクを”インターネットが産んだ新しい文化”と捉え、ミクそのものというより、その文化を作ってきた人たちをヒーローとして描き賛美するCMが全国放送で派手に送り出したわけです。

それ以降、「オタク」や「ギーク」が少しポジティブでカッコいいものとして受け止められるようになった気がして、その流れの先頭を走った仕事だったんじゃないかと思っています。もちろん、それを生み出したクリエイティブディレクターの本山さんという方が本当にすごくて、思考が常に一歩先をいっている人でしたが、この仕事がその証明になったように思います。本山さんとは、その何年か前から一緒に仕事をする機会をいただいていたのですが常に「今まで誰もやったことがないこと」をやろうとするんです。

ですから、そうした時に、新しいソリューションを作るのが僕の役割でした。

当時はまだ撮影機材も編集機器も高価で再撮影や修正が発生すると、とんでもないコストがかかりました。普通は、将棋の詰将棋みたいに先を全部読み切って撮影から編集まで行うのが当たり前だったんです。

ところがGoogleさんはデジタルの会社だからということはないと思いますが、まるでコピペするくらいの感覚で撮影後でもどんどん仕様を変えてくるので、必要なカットを増やさざるを得ない状況に追い込まれたりして、編集費だけでも数千万円の追加費が発生するなんてことも普通に起きるので、このままじゃ成立しないなと思いました。

「できない」ならやり方を変えればいい

そんな時、一人のギークなフリーランスのエディターとの出会いがありました。「国産高級車一台分くらいの予算さえあれば編集室を持ち歩けるマシンを作れます。」と彼は言うんです。

当時は編集って編集室でしかできなかった時代です。それを会議室に持ち込んで、その場で編集して、その場で試写して、またその場で直す。そんな環境が作れれば色々解決できるじゃん!と。

……今だから言えますけど、あの手この手でお金を工面して(笑)。そのマシンを作ってもらって、彼とともにその環境で一か月カンヅメになって「初音ミク」の提案映像を作りました。1ヶ月も編集室を使い続けるなんて、当時では考えられないことを実現したんです。そこまでやらないと伝わらない企画だったんです。普通の映像制作のやり方では対応できないからこそ、僕の仕事は、予算を取ることじゃなくて、実現できる仕組みそのものを作ることでした。

止まるか、前に進むかだったら、とりあえず前に進む。言い訳は後から考えるといったやり方です。その結果、Googleの「初音ミク」はカンヌのシルバーをはじめ、国内外の広告賞を多数いただくことができました。おまけに本山さんの仕事を成立させられるなら、優秀なんだろう、という評価もいただくことができたかもしれません。

「映像だけではこの先は戦えない」と思った

──順調に実績を積まれていた中で、独立を考え始めたのはなぜだったんですか。

僕は飽きっぽいんです(笑)。できあがった仕組みを繰り返すことには、あまり興味がない。

また、会社の中で役職が上がっていくと、自分の上にいる人がどんどん少なくなるというのがあって、その時の上司と意見が合うか合わないかで、できることが決まってしまう。それもあまり面白くなかった。

2010年代の終わり頃に感じていたのは、「時代が変わる」という危機感でした。あるクライアントの担当者が「地上波のCMを使わないキャンペーンをやりたい」と言ったことが気づきになったんです。

昨今はネットが普及して、一人ひとりがスマホを持って違うものを見るのが当たり前の時代になりましたが、マス広告が当たり前の時代にはなかった考え方でした。

「みんなに同じ広告を届ける」より、「一人ひとりに最適なコミュニケーションを届ける」ことが求められるようになってくる時代の幕開けでした。それなのに、「デジタルだけでいい」というオリエンに対して「いや、地上波流さないと効かないですよ」と提案するんですよ。広告代理店も制作会社も、そこに収益構造があるからというのもあったと思います。

その状況を見ていて、これからのプロデューサーは映像を作るノウハウだけじゃなく、マーケティングまで理解して対応できるようになる必要があると思い、そういうチームを作りたいと社内でも提案しました。短期の売上よりも、この先も戦える会社になることが大事だと思っていたんです。

ですがうまく説得しきれず、結果として会社を出る決断をするに至りました。

カオスな2年間を経て変化した組織文化

──シングメディアにはどのように関わるようになるのでしょうか。

AOIを出たあとに参画したHOPEという会社では、広告の仕事だけではなく、飲食やECの立ち上げといった新規事業にも関わりました。社長は心の広い人で、やりたいことがあれば好きにやっていいからと言ってくれていて。

そんなタイミングでたまたまAOI時代の後輩である、シングメディアCOOの佐藤一樹(以下一樹)と再会して。うちでも手伝ってもらえませんかと声をかけてもらったのが始まりでした。

最初は「週一回の経営会議だけ来てもらえれば」という話で業務委託からのスタートだったんです。

──参画から2年。現在は執行役員にも就任されています。社内で変わったと感じることはありますか?

かなり変化がありました。一番大きいのは、一樹以外にプロジェクトを引っ張れる人間が増えたことですね。

前原が入ったことによって、PMチームにも営業や戦略志向的な考え方がインプットされていったのはとてもポジティブでした。

それと、AOI Pro.で現役バリバリだった松田が加わったことも大きいです。。以前は、手本となる先輩が一樹だけで、若いメンバーも、一樹だけを見て育ってきていましたから、新しいことにどんどん挑戦することだけが「我々の仕事」だと思っているところがありました。

ですが、松田や前原のおかげで収益の柱や土台が整って、若手もいろんなタイプの仕事の進め方を見られるようになったと思います。結果として会社としてバランスが取れてきたように思いますし、一樹が無茶な挑戦しても会社が潰れない状態になったのは大きいですね。(笑)

──CEOの田中さんへの印象を伺いたいです。

一樹の誘いが参画のきっかけだったのですが、正直田中さんがどんな人なのかよく分からなかったんです。ただ、「一樹が”えいや!”という名のチャレンジで使っちゃうお金を、一生懸命集めてくる人」というイメージだけはありました(笑)。

でも実は僕を執行役員として誘ってくれたのは田中さんで、「資金調達したので、少なくとも2年分は給料を払えます。その間に結果を出せるチームを作ってください。」と言ってくれたんです。

今でも思いますよ。なんであそこまで一人で責任を背負って資金調達してるんだろうって。もう少し一樹にもやらせればいいのに(笑)。

ですが、そのバランスだから会社が続いてきたんですよね。もし田中さんがいなかったら、シングメディアは今頃潰れていたと思います。業界にも、ああいうタイプの人はなかなかいません。

大事なのは「成果」に責任を持つこと

──シングメディアらしさを感じることはありますか?

役員として参画してからは時に意見するようになりましたが、それでも基本的に意思決定をするのは田中さんと一樹です。

細かいエビデンスより、人の熱意を信用して任せる文化なんですよね。もちろん期待に沿わない結果になることもある。ですが、AIをやる。ショートドラマをやる。広告を売ってみる。まずやってみる。ダメなら謝ろう。そのスピード感はすごくいいと思っています。

そうした空気がシングメディアらしさかもしれないですね。

──薬師寺さんご自身は、プロデューサーとしての企画力や"社会との接点"をどのように身につけてきたんですか?

いろんな人と会うことですね。ジャンルの違う人から話を聞いたり、本を読んだりもします。最近はポッドキャストを聴くことも多いです。

実はAOI Pro.にいた頃は、今と比べて全然勉強してなかったんですよ(笑)。業界としての暗黙のルールがしっかりとできあがっていたこともあって、それさえ身につけていれば現場で必要なのは反射神経と行動力だったから。

ですが、社会そのものを変えていくような仕事をする人たちとご一緒するようになって、「雑談についていけない」と思ったんです。社会のことを知らないと、会話にならないなと。そう感じてからは勉強するようになりました。

──最後に、これから入る人へ伝えたいことを教えてください。

シングメディアは人数が少ない分、いろんな仕事ができます。ショートドラマもあるし、AIも、映像だけじゃない仕事にも関われる環境です。

映像業界全体にも言えることですけど、学歴はあまり関係ないと思っています。必要なのは、行動力と熱量です。

経験者で言えば、昔ながらの広告制作に少し飽きている人。でも、辞めるきっかけがない人。そういう人には、すごく面白い環境だと思います。

僕自身は仕事とプライベートをきっちり分ける感覚はありません。人生全部つながっていると思っています。その代わり、三日休むこともあります。

このときに大事なのは、成果を出せるかどうかが一番重要だということです。そこに責任を持てる人なら、すごく自由に働ける会社です。

ぶれない勤務時間と安定性を求めるなら、公務員を目指すのが良いでしょう。ですが、毎回ある新しい出会いと、チャレンジと、そして「やってやったたぞ」という達成感を仕事で味わいたい人には、すごく向いている職場だと思います。

僕はできれば80歳くらいまで現役でプロデューサーをやっていたいと思っています。大手だと50代になると管理側に回ることも多いけど、シングには役職はありません。生涯プロデューサーでいたい人。

社内政治や根回しより、「まずやっちゃえ」と思う人。そんな人こそ、この会社に合うんじゃないかなと思います。

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